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名古屋高等裁判所 昭和35年(う)1041号 判決

控訴人 被告人 中野芳郎

弁護人 杉浦酉太郎

検察官 荒井健吉

主文

原判決を破棄する。

本件を津地方裁判所四日市支部に差し戻す。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人杉浦酉太郎提出の控訴趣意書に記載するとおりであるから、ここに、これを引用するが、これに対する当裁判所の判断は、次のとおりである。

控訴趣意第一、二点について

所論は、先づ、原判決は、原判示第二事実について、被告人のいかなる行為が、罪となるべき事実に該当するのか、その犯罪なりとされる手段、方法を明示しない違法がある、という(論旨第一点)。

原判決が判示第二事実について、被害者伊藤忠秋の事故直前の状態について、「これまた酔余ふらふらと小倉橋の方向へ自転車を押していたか又は自転車と共に路上に倒れていたかの何れかと推認される」と択一的に事実を摘示し、そして又被告人の行為についても単に右伊藤忠秋に「自己の乗用した愛よ八五五五号軽自動二輪車を激突させ」と判示するのみで、伊藤忠秋の身体のいかなる部位に、いかなる状態で被告人の乗用した軽自動二輪車を激突させたものかについて、これを具体的に判示していないことは、所論のとおりである。ところで、原判決がいかなる必要と理由があればとて、前記の如く本件被害者伊藤忠秋の事故直前の状態についてことさら択一的記載をしたものか理解に苦しむところであり(この点については、なお後記控訴趣意第二点に対する判断を参照)、しかも、原判決が被告人が酩酊運転による制禦困難、かつ前方注視不十分の状態で原判示軽自動二輪車を疾走させて云々と摘示し、この点に被告人の注意義務違背があるかのような判示をする反面、その後段においては一方「酩酊中の無謀運転による制禦困難という重大な過失により云々」と摘示し、この点だけが本件における被告人の過失であるかの如き判示方法をとつているのであり、実は、原判決が果して、本件において被告人のいかなる態度をとらえて過失と認定したものか判断に苦しむものがある。そして、その前方注視不十分というのも、果して具体的にいかなる事実を指称するものか、すなわち、被告人が衝突直前まで被害者伊藤忠秋を発見しなかつたというのか、それとも、同人との衝突を回避することの不可能な至近の距離に迫つて初めて同人を認めたというのか、あるいは又、同人を単なる路上の障害物としてしか認識せず人として認識しなかつた点に注視義務の違背があるとするものであるか、これらの点についても、実は原判決それ自体からは判断つきかねるところである。次に又制禦困難という点についても、同様その具体的内容については判示するところがないのである。すなわち、被告人において避譲の措置を講じたが酩酊のためその適正な操作がとれなかつたというのか、あるいは、被害者伊藤忠秋の発見がおくれたため、同人との至近の距離において衝突を回避するについて必要適切な避譲の措置を講ずることができず、同時に又これが避譲の措置を講じなかつた、とするものかそれとも又被告人としては酩酊しており、自動車の制禦能力が低下していたのであるから、元来自動車の運転操縦をすべきではなかつた、というのか、この間の事情についても原判決判示事実からは判然しないものがある。更に、被害者伊藤忠秋の衝突直前の状況について原判決は前示の如き択一的認定をしているわけであるが、同人が被告人の進路前方を自転車を押してふらふらと歩いていた場合と、路上に寝転んでいた場合とでは、被告人の側からする発見の難易、避譲の方法の難易について、自ら異るもののあることは看易い道理であり、原判決が被告人において衝突直前まで右伊藤の姿を発見できなかつた点に本件過失の成立を肯定したものならば格別、前説明のとおりその過失の具体的内容を確定できない本件では、右衝突直前の被害者の状況も又被告人の本件における過失の内容を確定するについて関係するものでないといい切れないことは説明を要しないところである。以上の次第であつて、結局原判決の事実の摘示は、抽象的な法的判断を示しただけで、罪となるべき事実の具体的摘示に欠くるものがある、といわざるを得ないのである。(論旨は、被告人が被害者伊藤忠秋の身体の如何なる部分に自車を衝突させたものかについて、判示するところがないというが、被告人がその運転中の軽自動二輪車を伊藤忠秋に衝突させた事実について判示している以上所論の事実についてまで詳細に判示する必要はないものというべく、この論旨及びその余の論旨第一点中の弁護人の主張は結局事実誤認の主張に過ぎない。)

次に、論旨は、原判決が取り調べた証拠によれば、被告人が軽自動二輪車を被害者伊藤忠秋に激突させて、同人を原判示の死因により死亡させたと認定するについては、なお合理的疑いを容れる余地があり原判決には明らかに判決に影響を及ぼすべき事実誤認があるか又は理由不備の違法がある、というのである(論旨第二点)。さて、原判決引用の証拠によれば原判示第二事実中、被告人が原判示日時ころ、すなわち、昭和三四年九月八日午前零時三〇分ころ、飲酒のうえ、愛よ八五五五号軽自動二輪車に乗り、原判示四日市川合町小倉橋北詰より約一〇〇米北方の県道上に至り、その進路前方に何か黒い障害物を発見し、これを避譲しようとして、転倒し、自らも負傷したこと、その直後、同日午前一時ころ軽自動車を運転して右小倉橋を渡り南進中の浜田邦彦が、本件現場の道路中央よりやや西寄りに頭部を北東側に向け、顔面を北西に向けて腹部、胸部等に重傷を蒙り仰向けに倒れていた伊藤忠秋を発見していること、同人の着用していた作業服胸部に当る部分には明瞭な車輪の痕跡がついており、その痕跡からみて、加重体が同人に接触してから、少しの間重みがかかつていたものと認められ、その車輪の痕跡の紋型は、前記被告人の当時乗車していた軽自動二輪車の紋型と同種のものであること、以上の各事実を認定できるのであつて、これらの事実によれば、被告人が原判示日時ころ、原判示場所でその乗車中の軽自動二輪車を伊藤忠秋の胸部附近に激突させた事実を認定できるものというべきである。

ところで、原判決引用の医師井上武夫作成の伊藤忠秋の死体検案書、鑑定人山本器作成の鑑定書によれば、伊藤忠秋の死因は原判示のように肝臓破裂による失血のためであり、右肝臓破裂は、肋骨骨折(右鑑定書添付の写真三枚目、第五、第六創間)により生じたものであることは明らかである。然るに、右鑑定書及び原審第五回公判調書中の証人山本器の供述記載によれば、伊藤忠秋の屍体の右側第四ないし第一〇肋骨は折損しているが、上部肋骨には骨折はないので、右肋骨骨折を招いた創傷は巾の広い物体が一度に当つたものとは推定できず、巾の狭い物体による数度の衝撃が加わつたために生じたものと認められるのであるが(なお、前記山本器作成の鑑定書添付の写真によれば、伊藤の胸部には右肩から右腹部にかけて数個の条痕の存することが認められる。もつとも右衝撃の回数までを推定することはできない)、原裁判所の証人兵藤栄蔵に対する証人尋問調書及び同人作成の鑑定結果報告書によるも、前記の如く伊藤忠秋の着用していた作業服に被告人の当時乗車していた軽自動二輪車前輪タイヤの紋型と同種の紋型の痕跡のあることは認められるけれども、それが一回につけられたものか、数回につけられたものであるかは確定できないところで、右タイヤの痕跡を以つてしては、被告人の乗車していた軽自動二輪車が伊藤忠秋に数度の衝撃を加えたものと断定することは困難であるし、右タイヤの痕跡から推認される同人の身体のその部位の衝撃と前記死因を招いた創傷との因果関係を推認することも又困難である。加えて、被告人がその乗車中の軽自動二輪車を伊藤忠秋に衝突させた直前、原判示場所を通過したと認められる古市正、東条善郎の原審公判調書中の証人としての各供述記載によれば、伊藤忠秋は当時原判示場所の道路中央附近に頭を東南に向け仰向けに寝ており、その南側に同人が使用していたと認められる自転車が横倒しになつて置かれていたことが認められるのであり、(記録を精査してみても、原判決が択一的に認定した如く本件衝突直前伊藤忠秋が酔余ふらふらと小倉橋の方へ自転車を押していたことを認定するに足りる証拠は極めて薄弱である。)しかも、被告人が前認定の伊藤忠秋に衝突した直後の状況は、前記の如く現場の道路中央よりやや西寄りに頭部を北東に、顔面を北西に向けて仰向けに倒れ、起き上るような動作をしていたもので(原裁判所の証人浜田邦彦に対する尋問調書)、同人の倒れていた位置から西南約二、八米の地位に同人の自転車が前部を南に向け、東側に倒れており、その前部ヘツドパイプは「く」の字型に曲り、右ハンドル握りに破損個所が認められるのであつて(司法警察員作成の実況見分調書、前記浜田邦彦に対する証人尋問調書)、これらの状況からすれば、被告人は、当時道路中央附近に仰向けに寝ていた伊藤忠秋に、その運転中の軽自動二輪車の前輪を衝突させたものというべきであるが、如何なる状況において同人に衝突し、従つて又同人の南側にあつた自転車までを前示の如く破損させたものか(自転車ハンドルの破損状況からするもこの部分に相当強い衝撃の加わつていることは明らかである)、すなわち、被告人が伊藤忠秋に衝突すると同時に右自転車をも破損させたものか、それとも両者には各別の衝撃が時を異にして加わつたものか、そして、それらの衝撃はいずれも被告人の乗車中の軽自動二輪車によつて加えられたものかこれらの点については原裁判所が取り調べた証拠によつては未だ十分にそのいずれであるかを解明することはできないのである。してみると、被告人の運転中の軽自動二輪車がいかなる状況において伊藤忠秋の身体に衝突し、数回の衝撃を加え、かつその傍らに置いてあつた自転車までを破損するに至つたものかについては、原判決引用の証拠によつては確定することのできないものというべく、その結果は、伊藤忠秋の死因となつた前示肋骨骨折による肝臓破裂が果して、被告人がその運転中の軽自動二輪車を伊藤忠秋に衝突させたためだけの原因により生じたものといい得るかどうかについても合理的疑いを残すものといわなければならない。そして、記録に徴し窺い知ることができるように本件事故現場は事故当時においても自動車等の往来もかなり存する県道であり、その道路中央の、当時街燈の設備のない暗いところに伊藤忠秋が酒に酔い仰向けに寝ていたことから考えれば、本件においては、被告人の運転中の軽自動二輪車が同人に衝突した直前又は直後に、被告人以外の自動車等が同人に衝突しなかつたものとも即断できない事情も存する。いずれにしても、原判決としては、須らく、伊藤忠秋の死因となつた創傷が、被告人の運転中の軽自動二輪車が同人に衝突したことに因り生じたものであることを鑑定等の証拠に基いて確定すべきであつた。

以上の次第であつて、原判決には、被告人の有罪を断定するについて、罪となるべき事実を具体的に示さなかつた違法が存するばかりでなく、更に又いわゆる重過失致死の事実について、伊藤忠秋の死の結果が、被告人の行為に因るものであることの因果関係を明確にするについて事実の誤認があるものというべく(その誤認が判決に影響を及ぼすこと明らかである)、論旨は理由があり、原判決はこの点においてとうてい全部破棄を免れない。

以上の理由によりその余の論旨に対する判断を省略し刑事訴訟法三九七条一項に則り原判決を破棄し、なお本件は原審が前記のように審理不尽があるため、当裁判所において判決するのは適当でないと認めるので同法四〇〇条本文により、これを原裁判所である津地方裁判所四日市支部に差戻す。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 影山正雄 裁判官 谷口正孝 裁判官 中谷直久)

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